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2015.11.06 義烈空挺隊
義烈空挺隊は奥山道朗工兵大尉を中隊長とする5個小隊(第1挺進連隊より選抜)、これに陸軍中野学校出身者の10名を加えた136名。空中輸送を担当する諏訪部忠一大尉を隊長とする第三独立飛行隊(97式重爆Ⅱ型装備)12機32名で構成された。上位組織は第6航空軍
母体となる第1挺身連隊は開戦当初パレンバン降下作戦に従事するはずであったが、海難事故により戦力を喪失。「空の神兵」は次編成である「挺進第2連隊」に譲る事となった。連隊は戦力回復後も戦機に恵まれず昭和19年本土に帰国。これには切歯扼腕とした思いがあったのだろう。特攻隊抽出を命じられた奥山大尉は間髪いれず「やります」と答えた。当初、同隊はサイパン挺身攻撃隊として編成され、極秘裏に訓練が行われていた。任務の第一はB29の爆破、破壊でその演習には吸着爆雷と帯状爆雷が使用され、さらに攻撃後はゲリラ攻撃を反復する計画であった。しかし中継基地である硫黄島に米軍が上陸したため、サイパン攻撃は頓挫し、次に計画された硫黄島挺身攻撃も同島の失陥により中止となった。そして義烈空挺隊は最後の特攻目標である、沖縄に向けられた。

昭和20年5月23日1700、菅原軍司令官の激励のち、万歳三唱。しかし隊員たちが飛行機に乗り込もうとしたとき、沖縄方面、天候不良の無線が入り、1日延期された。
翌24日天候良好の報告あり、出撃に先立ち四式重爆8機が義烈空挺隊の露払いにと爆撃を敢行。1840、義烈空挺隊は熊本健軍飛行場を離陸、米軍占領下にある沖縄の北、中飛行場に向かった。
攻撃隊12機は途中4機の脱落機が出るも、敵の電探を掻い潜るため超低空飛行で一路沖縄を目指す。
企図秘匿のため、変針時、本島到着、突入の3回のみ無線を使用することになっていたが、変針時、本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。2200の突入予定時刻になっても無線の入電はない。 突入失敗か?司令部に重苦しい空気が流れ始めた2211頃、突然に「オクオクオクツイタツイタツイタ」の無線がスピーカーから流れた。同時刻、飛行第60戦隊の誘導機杉森大尉機(四式重爆)が沖縄上空へ侵入。照明弾2発を投下。その照明を頼りに全機突入を開始。激しい対空砲火を潜って僅か1機が読谷飛行場に突入成功。胴体着陸した機体から飛び出した10名余りの隊員たちは一旦集合し、お互いの顔面を殴り合うと散会、所持した弾薬で飛行場内を破壊しまわった。2245米軍のパニックを伝える無線を知覧、健軍飛行場が傍受。これにより6航軍は本突入を成功と判断した。
翌日、米軍の混乱に乗じ航空総攻撃が行われるはずだったが天候不良により作戦中止。
空挺隊の戦果は水泡に帰した。

取材で隊員達と寝食を共にした大峯淑生氏は、戦後出撃の日の様子を記している。

遠くに阿蘇山が見え、中岳の噴煙が真直ぐに立ちのぼる。雑木林の青葉が目にしみ、のどかな初夏を感じる。隊員たちと起居を共にし、私たちはすっかり打ちとけた。窪添カメラマンは”ヒゲのおっちゃん”と親父ぐらいの年齢なので親しまれていた。一番からだの小さい村瀬伍長は「韋駄天村瀬」の異名をとる二十歳の若者で、サントリーの12年ものをわれわれにすすめてくれたりした。村上中尉は将棋盤を持って「一番願います」と私の好敵手だった。飛行隊の長谷川曹長は人なつっこい写真好きな青年で撮影機をのぞいて「見える見える撮りますよ。」・・・と無邪気だった。

決行の日。私たちは兵舎で最後の撮影プランに入る。午後の時間か、静かなひととき。チチ、チチと小鳥の声が耳に入る。奥山大尉と渡部大尉の碁を打つ音がビシッ、ビシッと響いてくる。木陰の下では、細面の諏訪部大尉が木片に小刀で観音像をコツコツと刻んでいた。
あと数時間で沖縄へ向かう隊員たちであった。

義烈-oku
<出撃前、軍司令官より杯を受ける奥山大尉>

義烈2
<整列する隊員達。>

義烈
<墨で迷彩塗装を施す隊員達。>


余談1 生き残った隊員 山田満寿雄中尉

第6航空軍隷下の第62戦隊長新海稀典大佐が第2独立飛行隊長時代サイパンイスリート飛行場襲撃に功があり、防衛総司令官の東久邇宮稔彦王より感状を授与されたのが1月27日。
感状授与の日、常日頃から軍刀を引き摺る癖のあった新海大佐は第三独立飛行奥山隊の山田満寿雄中尉の軍刀を借りるのだが、この第三独立飛行隊は、後に義烈空挺隊として沖縄にて全滅する。

さてさて、この山田中尉は義烈空挺隊の小隊長として出撃するも搭乗機が不時着し大破。
奥山隊は壊滅した為、挺身戦車隊に転属となり終戦を迎える。
終戦後、第6航空軍司令部に転属となり、残務処理を担当するようになるのだが、生き永らえた事により、部下や奥山隊長がどのようになったか、そればかりが気になり仕事も手に着かない有様だった。それを心配した同僚が死んだ人と話ができるという占師を紹介する。
早速、占師の元に行ってみると23人もの先客がおり、戦地にいる息子の安否を尋ねる人たちばかりだった。やがて順番となり用向きを聞いた占師は山田中尉を一室に招き入れた。
占師「あなたの部下の方々は立派に戦われました。心残りはないと申されました」
山田中尉「・・・奥山隊長は?」
占師「ああ残念なりと一言申して消えてしまいました」
それを聞くと山田中尉はワーっと泣き伏してしまった。

後年、座談会に於いての山田中尉回顧

「私自身、生き永らえたものですから色々と言えた立場ではありません。
しかし、このとき戦死した113名の人達の事を考え、敢えて申し上げるならば空挺作戦、ことにこのような特別作戦は、最も重要な戦機に実施し、全力を挙げて戦果を拡大できるように使ってほしかったと思います。この義号作戦では一体どうだったのか。これが出来ていなかったのではないか、全く残念なことであったと思うのです。」

これは恐らく、占師の言った「残念」を山田中尉が咀嚼し、彼なりに出した結論なのだろう。義烈空挺隊突入後、沖縄周辺は雨が降り戦果拡大は出来ず「尻切れトンボ」となって終わってしまった。

余談2 軍司令官菅原道大中将の戦後

戦後、義烈空挺隊の生き残りの方々が菅原を糾弾する為、宅を訪れた。
しかし、その宅は畳の一枚もないお粗末過ぎる廃屋当然の家。生き残りの面々は当初の目的を忘れ、唖然として帰っていった。そのボロ小屋で菅原一家五人は必死で生活をしていた。戦前より俸給は殉職した部下の家族等に送っていた為、無一文に近い菅原家は困窮に喘ぐ。そのうち長男道紀が中支で煩ったマラリアで病床に伏した。道紀は母の手を握り「私が死ぬと御両親は少しは肩身が広げられますね」と言ったのが最期の言葉となった。
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